2013-05-15 第183回国会 参議院 予算委員会 第18号
私は、父が職業軍人を目指していて、幼年学校から士官学校へ行って、そして父は八月十五日を、士官、少尉になる手前で戦地に行かない立場で迎えました。その後、本当にこの戦争が何だったのか、言わば人間不信に陥るような、そういう心の葛藤がやはり二十歳、二十一、そんな世代の若者たちの中にありました。
私は、父が職業軍人を目指していて、幼年学校から士官学校へ行って、そして父は八月十五日を、士官、少尉になる手前で戦地に行かない立場で迎えました。その後、本当にこの戦争が何だったのか、言わば人間不信に陥るような、そういう心の葛藤がやはり二十歳、二十一、そんな世代の若者たちの中にありました。
もちろん、生徒という制度そのものは特別の高度の技術者を養成するということは分かっておるんですが、今私が申し上げたように、中学のときに、昔は、これが、制度ができたときには、幼年学校ができたんではないかということでたくさん入ってきた人たちもおるようなことです。
私、一言申し上げたいのですけれども、内心の自由でございますが、私も戦争中に、中学校のときに校長先生と教頭先生にひざ詰め談判に遭いまして、幼年学校へ行けと言われました。それからその次に、陸軍は嫌だと言ったら、翌年になって予科士官学校ができたからそこへ行けと、海軍ならいいんだろうと言われました。拒否しました。そのことは決して楽なことではなかった。
確かに、各市町村で一番身体強健、学力優秀な人が陸軍幼年学校や海軍兵学校に進まれて、月月火水木金金の猛訓練をして、その中でまた優秀な人が海軍大学校、陸軍大学校にお進みになって、そのまた優秀な人が提督、将軍になられたわけでありますから、組織として戦史をひもときますと日本の陸海軍は全く無能でありました。
永野発言、しかも永野さんは陸軍幼年学校、士官学校、そしてさらには自衛隊の幕僚長という、ずっとそういった道を歩いた方をわざわざ法務大臣に据え、さらには柿澤発言、神田発言と続いたということは、この際に北朝鮮の核疑惑、核疑惑という脅威をあおりながら、有事立法体制を何としてでも日本にしきたいというような、そういった非常に今の政権に対する危惧感を持っているわけでございます。
それで、シビリアンコントロールの立場からちょっとお伺いをしますけれども、確認をいたしますが、宮下防衛庁長官は、昭和二十年三月名古屋陸軍幼年学校卒業、同時に陸軍予科士官学校入学、二十年八月終戦によってやめられた。つまり、これは職業軍人であります。
○宮下国務大臣 私が陸軍幼年学校の三カ年卒業者であり、なお陸軍予科士官学校に入学いたしまして、終戦により復員と申しますか廃校になるということでございまして、そのことはこれは変わっておりませんが、しかし先生、ちょっと加えさせていただきますが……
○岡田(利)委員 私は、ちょうど沖縄戦士と同じ年配である渡辺外務大臣のお話も聞きたいと思いましたし、また、陸軍幼年学校を卒業して士官学校第六十一期生の宮下防衛庁長官にも実はお尋ねしたかったのでありますが、時間がありませんので省略をいたしたいと思います。 私はそういう意味で、この戦争終戦当時の状況のいわゆる証人である、こう私自身は思っておるのであります。
○参考人(石井威望君) 戦争中でございましたから国民学校終わりまして中学へ入りまして、これも公立の中学校でございますが、途中で一年半ばかり陸軍の幼年学校へ参りました。戦争が終わりましてからもとの中学へ復学いたしました。その後は旧制の高等学校、あとは大学、すべて公立てございます。
例えば、先導的試行としての幼年学校構想などというものは、やはり幼稚園関係者等大変反対意見が多くて理解が得られなかった。あるいは公立と私立の学校に関する教育行政の一元化の問題も、やはりまだまだ調整ができなかった。それから、幼稚園の設置義務の問題につきましても、これまた保育所との関係でなかなか意見がまとまりにくいという面があった。
中教審の四六答申の中で実現を見てない大きなものは、学校制度に係る先導的試行、その中では幼年学校などという構想もあったわけでありますが、その問題、あるいは幼稚園について市町村に設置義務を課する問題、それから公立と私立の学校に関する地方教育行政の一元化の問題等々あったわけでありますが、幼年学校の問題等は、財政問題が起こる前に関係者の合意が得られないということもあって今まで実現をしてないものだと思います。
そして、私は戦時中、少年のころに陸軍の幼年学校に入学いたしました。終戦のときは士官学校に在学中でございました。私どもは、そういう意味では戦前の日本の教育というものを実際に教育を受ける側の者として体験をしてきた人間の一人だと思っております。
それから、免許、資格、能力等を付与する年齢というところでは、自衛隊の採用年齢、これは昔の幼年学校みたいなところに入れるなんという場合のあれが十五歳。これは少年の時代から軍人として鍛えようということです。海員学校入学の資格だとか、そういうようなもので十五歳以上というのがあります。それから十七歳というのも、船舶職員の受験資格なんというものがあります。
君は、昭和五年九月二十六日、東京都北区岩渕町に生まれ、昭和十八年北区赤羽小学校を卒業されるや、陸軍幼年学校に進まれましたが、やがて終戦を迎えられました。君は、都立第九中学校を経て慶応義塾大学文学部に学び、昭和三十年大学を卒業されるや、直ちに株式会社啓愛社に入社され、昭和三十三年には同社より分離独立して、今日の株式会社啓愛社製作所を設立し、社長に就任されました。
私のせがれと幼年学校が一緒なんです。お父さんがやはり私と仙台幼年学校の同窓でございまして、満州事変のときから非常に近しくしておったんです。それよりも先に、私、士官学校の生徒のとき区隊長をやっておりまして、それからの知り合いなものですから——どうも、きょうは脱線しそうで心配しております。 じゃ、ごあいさつに入ります。
その点、宇都宮さんなんかは、あれは幼年学校で退校になったと私言ったら、退校じゃなくて自分でやめたそうですが、良民だから。あの人のお父さんも陸軍大将、そういう家庭の者は軍人になるのは日本ではあたりまえだったけれども、あの人は軍人に愛想尽かして幼年学校のときやめているんです。偉い人ですよ。
あるいは幼児教育、中教審なんかで言っている幼年学校なんという制度のこともありましょう。 そういうようにいろいろありますけれども、ただ、少なくとも総理大臣のメモの四つの中で、現状にそぐわなくなったところのそういうものというのはもっと大きいものでしょう。その中で言われているのは、一つにはきっと区切りの問題があると想像もするのですが、大臣は、いわゆる六三制についてはどう思っていらっしゃいますか。
そこで、いわゆる幼年学校のような形で早い時期から採るということも一つの方法でございます。しかし、人間的な教養というものを積ませた上で必要な自衛官としての教育をやるということが、当時まだ保安庁時代でございましたが、議論されたことがございます。
もう一つ、往年には幼年学校というて中学校の途中から、高等小学校あるいは中学校の一、二年から入って三年間の幼年学校というのがあった。それから士官学校というのがあった。そして、陸軍、海軍の大学というのがあった。
○受田委員 防衛大学をつくるときの議論ということですが、昔の幼年学校というのは、中学三年で、一年からでも行けた。そんなのとは違って、いま中学三年を卒業して高等学校へ行くのでございますから、高等学校の生徒の分をそうした幹部自衛官の養成に充てる。現に工科学校の学生、若いのがおるでしょう。いま中学校から採用するものがあるでしょう。
特に幼年学校出の者に対しては先輩がこれをかばって、一人も軍法会議や罪におとしいれるようなことはならぬという長い不文律の規定があって、そして全部下士官、兵が、いわゆる戦場という閉鎖社会の軍隊という中で、血も涙もない処罰を受けて死刑になったりしている。
どうも、幼年学校から士官学校だということだと眼界が狭い。中学から士官学校へ行った者のほうが幅が広くて、幼年学校から行った者はどうも狭い。あるいはまた、師範学校という教育制度がありましたが、これらについても、一つの狭い、世間全体の国全体とか社会全体というものを考えないで、ある小さいところで固まってしまう教育というものが必ずしもいいか悪いかという問題があったと私は思います。
幼児学校ということで、四歳児と五歳児と小学校一年生と二年生と合わせるところの幼年学校なるものを、ちゃんと一つの構想の中に描がいて、しかも、四四六制を指向しているということは明白なんです。それを、あえてあなたはここで否定されるつもりですか。
幼年学校なんということばは、何か昔の幼年学校を思い出させるようなことばで、あまり感心いたしませんけれども、科学技術の革新が行なわれておる今日の急激な変化に対応するだけの教育制度というものは考えなくてはならないということは考えられるのであります。